掌に残る、かつお節の削り屑。
爪の奥に染み込んだ昆布の潮の匂い。
料理人としての私を彩るのは、華やかな勲章でも、雑誌の星でもない。
朝一番、鍋の縁をすべる琥珀色の雫が、ふっと静かに震える──その瞬間だ。
「美味しい」と言われるたびに、胸のどこかがざわめく。
もちろん嬉しい。けれど、欲しかったのはその言葉ではない。
カウンター越しに、湯気をまとった瞳がほどけて、
“ああ、生き返った”とでも言うように頬がゆるむ。
私はその表情を、まるで真冬の初雪のように手のひらで受け止めたいのだ。
賞賛は、過去形で語られる評価だ。
「よくやった」「素晴らしかった」──終止符の後ろに置かれる拍手。
だが料理は、今この瞬間にしか生まれない命。
鍋から器へ、器から口へ、そして血肉へ。
一滴が人を作り替え、未来を少しだけ書き換える。
私が求めているのは、その書き換えの現場に立ち会う権利だ。
だから私は、派手な盛り付けよりも、
耳を澄ませば聞こえるほどの小さな沸騰音を選ぶ。
だから私は、豪華な言葉よりも、
匙を口へ運ぶまでの沈黙を整える。
そこにこそ、人が自分自身と対話する隙間があると信じているから。
もしあなたが、仕事帰りに肩を落として暖簾をくぐる日があったなら、
私はただ、黙って一番出汁を差し出そう。
その温度、その香り、その密度が、
あなたの奥底でほどけたがっている何かに届くことを願いながら。
そしてあなたが器を置くとき、
ほんの一瞬でも眉間の皺が消えていたら、
私は胸の内でそっと箸を揃える。
それだけで十分だ。
欲しかったのは賞賛じゃない。
欲しかったのは、自分を許す一秒。
それを見届けるために、私は今日も白い雫を鍋に落とす。
湯気は上へ、香りは横へ、旨味はあなたへ。
拍手は要らない。
どうかその一秒を、連れて帰ってほしい。
ふにゃおす 足一 冬真